宗教が信者に強制する3つのこと
宗教は信者に3つの事を強制します。 1. 祈り 朝晩祈る、お経を唱える、教典を寝る前に読むなどが祈りというわけです。また毎日反省する、懺悔することも祈りの一種です。なぜ祈るかと言うとその宗教特有の霊界とつながるためです。普通はこれだけでその宗教特有の顔つきに変わっていきます。 なお、信仰したから健康になる、またはお金が儲かるという話はウソです。 なぜなら身体とお金は物質だからです。信仰して良くなるのは想念や心という部分に過ぎません。 2. 施し 宗教は徳分の効用を説くものです。「幸せになるためには寄付をしなさい」、「タダで働きなさい」、「和顔、愛語を心がけなさい」と、信者に言うわけです。 ところが実際には「教団に献金しなさい、教団の催しで奉仕しなさい」という風に変化します。 施しはその宗教とは無関係な慈善団体などにしても良いのですが、それでは宗教団体は維持できないので「教団に」という風になるのです。 さてなぜ施しを強制するかというと、施すとなぜか教団に対して依存心が生まれてくるからです。この不可解な心理状態を教団側は利用するわけです。 3. 戒律 戒律とは僧侶の起居動作、礼拝などを規定したものです。戒律に従えば霊魂が向上し、神仏に近づくというわけです。ところが戒律は手段に過ぎませんが、そのうちそれ自体が目的化し、まったく意味の無いことを僧侶が行うようになり、おかしなことになります。 一方で庶民向けのものがあります。庶民向けの戒律は、道徳、倫理という名前に変化します。 国内には倫理と称する団体があり、宗教ではないとされていますが、その創始者の経歴を見れば宗教であることは疑いありません。 なぜ戒律があるかというと、人間は不合理なことを命じられ続けるとそれを命じた者に隷属する性質があるからです。たとえば奇妙な礼拝を命じる宗教の方が、信者はその宗教に隷属的になるというわけです。 ちなみに戒律が無いと言う宗教が現実に存在しますが、それはタテマエに過ぎず、 必ず戒律は存在します。 例えば神社は戒律が無いと言われていますが、試しにホームページを見てみると、「参拝は正装で」などと、書いてあり、服装で区別をするのは一種の戒律です。 宗教と国家の類似性 以上の3つをうまく使用しているのは宗教だけではありません。 国家が国民に強...