宗教から見た臓器移植の問題点

臓器移植には宗教的なさまざまな問題点があります。
そこで何が問題なのかを明らかにしたいと思います。

神仏の下の平等の否定

第一に臓器移植は神仏の下の平等を否定します。
人間は本来、神仏の下に平等であり、一方が犠牲になってもう一方が救われるという考え方は間違っているわけです。

医療の世界では一方を生かして一方を見捨てるという選択が正当化されますが、それは宗教の世界では禁忌というわけです。

因縁や劫の問題

第二に因縁や劫という問題があります。
人間には先祖の因縁や劫というものがあり、臓器移植を受けるとその臓器にくっついている他人の悪因縁や悪劫も受けることになります。

たとえば中国の死刑囚の腎臓をもらった人は当然、殺人という劫ももらうことになるわけです。

臓器を他人にあげることが善行と思っている人は多いですが
実際は自分の不幸をプレゼントすることになるわけです。

他に、それまでは両親二人、祖父母が4人、曽祖父母が8人だったのが臓器をもらうとその倍になるわけです。これは日本人の先祖崇拝を複雑化します。

愛念の否定

第三に愛念を否定しています。

臓器移植を待っているレシピエントやその家族は
毎日どのような想いで暮らしているのでしょうか?

「早く誰か事故に遭ってくれないかな」
「心臓に傷がつかないように誰か脳死になってくれないかな」
と思っているのではないでしょうか

つまり他人が不幸になることを毎日祈っているということになります。
これは非常に怖い現実です。
町の誰かが他人が交通事故に遭うことを毎日願っている。
それが全国で何万人もいるというわけです。

宗教の根幹は愛念であり、その愛念からたとえば如来や菩薩は発願して
人を救いたいとか、病を治したいとかそういう願いを立てているわけです。
したがって宗教の信者はその神仏の根幹の思いに寄り添う必要があり
だから「他人の幸せを祈る」わけです。

他人の不幸を祈るということは
神仏の心を否定することであり反宗教となります。

臓器移植に賛成している宗教家はそこまで考えていないようです。

死を機械が決定

第四に死を機械が決定するということがあります

それまでの死は心臓停止、呼吸停止、瞳孔散大、さらに死後硬直、腐敗と誰がみても死んでいると認識できるものでしたが
脳死は体が暖かくても、心臓が動いていても死んでいるというわけです。
つまり機械が死んでいると判断したから「死んでいる」という
強引な決めつけを行うわけです。

本来人間の生死は神が決めるものであって、人為的なものが入り込むことは神の意志を否定するということになります。
妊娠中絶を否定する宗教もありますが、そこには人間が生まれることは神様が決めるという絶対的な信仰があると思います。


さて仮にドナーが臓器を提供することを善行だと思っていても
レシピエントに移植された臓器が数年で使い物にならなくなり
新たな臓器が移植された場合、
最初のドナーの臓器は医療廃棄物として捨てられるのです

所詮医療の現場では臓器はモノ扱いにすぎず
いかなる宗教的な反対意見も彼らにとってどうでもいいことだと思います。

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