南方作戦は昭和11年に作られた 本当の歴史は恐ろしい

南方作戦とは昭和16年12月8日に開始された作戦です。陸軍と海軍で作戦が実施されました。日本海軍はフィリピン、ボルネオ、インドネシアなどに上陸作戦をしました。
しかし誰がこの作戦を作ったのかわかっていませんでした。
陸軍や海軍の書類が終戦時に焼却されたため、まったくわからなかったのです。

ところが「艦長たちの証言」という本の中で、松田千秋氏が軍令部案の存在を明らかにし、それをひっくり返したのが山本五十六の真珠湾攻撃であると述べています。そして軍令部案の一部を明かしました。
つまり日本近海でアメリカ海軍の艦隊を撃滅するという話でした。
しかし具体的な軍令部案の全容は明らかにしませんでした。
もしかしたら取材した人物が書き残している可能性はありますが、それが公表されることはおそらくないでしょう。


軽巡洋艦夕張の航泊日誌


最近になってアジア歴史資料センターのデジタルアーカイヴを調べたところ、ようやく作戦計画作成の時期が分かって来たのです。
軽巡洋艦夕張の航泊日誌を調べていたところ、奇妙な記述がありました。
それらをまとめると以下のようになります。

昭和11年4月、軍令部課長ら三名の佐官、他2名、合計5名が台湾の高雄で5水戦旗艦夕張に便乗した。
軽巡洋艦夕張は東沙諸島、サイゴン、バンコク、インドネシア、ボルネオ、フィリピンを回った。
途中海軍中佐はインドネシアで退艦、海軍大佐はフィリピンで退艦した。
佐官らは軍服ではなく、民間人の格好をしていた。
同乗者の1人は外務省の人間らしい。
となるのです。


C11084158900.c0962a00020.2kouhakunishi_045.0532_01
C11084159200.c0962a00020.2kouhakunishi_045.0569_01

夕張が碇泊した場所は南方作戦が行われた場所と符合します。
おおよその見当は付いたと思いますが、この5人は作戦計画のために偵察をしていたのです。

防衛戦争、解放戦争は否定される


これまで数多くの人が、南方作戦の理由を「資源獲得のため」と説明してきました。
その中には元海軍の軍令部員なども含まれていました。
それではなぜ彼らは南方に資源が存在する事実を知ったのでしょうか。
それは海軍軍令部に報告書があったからです。
その報告書が昭和11年に作成されたわけです。

次に作戦計画ですが、これも昭和11年に作成されたと考えます。
さらに気になるのが軍令部員の海軍中佐が陸軍に出入りしていたということです。
想像すると南方作戦は陸軍が発案し、その人が海軍に持ち帰ったとなるのです。

また偵察チームには外務省の人間も含まれていたのです。
つまり南方作戦はすべての省庁が了解したと考えられるのです。

以上の事実はこれまでの歴史観を否定します。
「大東亜戦争は防衛戦争だった」
 作戦計画が昭和11年に策定されていたから防衛戦争ではありません。
「解放戦争だった」
 そもそも占領することが第一の目的。満州を占領したのと同じ理由と思います。  
「軍部が戦争を起こした」
 外務省なども計画に加担していたから、軍部が暴走したというお話も否定されます。
   
 

年表でわかった情報漏洩

さらに多くの歴史の疑問もわかります。

昭和11年2月26日 2.26事件
昭和11年4月    軍令部員らがサイゴン、バンコク、ボルネオ、インドネシア、フィリピンの調査

昭和12年7月7日 盧溝橋事件
昭和14年5月12日 ノモンハン事件

昭和15年9月23日 北部仏印進駐
昭和15年10月29日 日本 蘭印東インドに租借申し入れ
昭和16年7月28日 南部仏印進駐
昭和16年12月8日 真珠湾攻撃、
昭和17年 1月2日 マニラ占領


昭和10年には霞が関の官僚たちが南方占領に関して合意、了解していたと考えると
2.26事件や日中戦争が邪魔をしていることがわかります。
つまり情報が漏れていたのです。
また真珠湾攻撃も南方作戦を妨害しています。
南方作戦に戦力を集中していれば良かったのですがそれをしなかった。
山本五十六裏切り者説も信憑性が高いと思います。


コメント

このブログの人気の投稿

徳分の法則

アワの歌健康法 問題点と感じたこと

徳切れ人間の恐怖